何があった?
オーストラリアでは2015年以降、社会保障給付の受給者について、税務当局が持つ年間の雇用所得データなどを使って過払いの可能性を調べる一連の仕組みが運用されました。後に「Robodebt」と総称されるこの仕組みでは、実際の2週間単位の所得が確認できない場合に、より長い期間の所得を平均して各2週間へ割り当てる「所得平均化(income averaging)」が債務算定に使われました。
2022年に設置された王立調査委員会(Royal Commission)は、制度の設計・実施、法的助言、意思決定、受給者や職員への影響などを調査しました。2023年7月7日に最終報告書を提出し、公式サイトでは7月11日に訂正版が公開されたと説明されています。
報告書が違法としたのは、各2週間の実際の所得を示す十分な情報がないまま、平均化した所得を債務算定の根拠にする運用です。所得平均化そのものを一律に違法としたわけではありません。
報告書は、所得平均化の適法性について早い段階から否定的な法務助言があったこと、その後も規模拡大や外部法律意見、コンサルタント報告書などをめぐる判断が行われたことを、メール、説明資料、証言、PowerPoint資料などから再構成しています。
本記事の日本語は報告書の付箋による翻訳・要約であり、王立調査委員会による公式日本語訳ではありません。
この報告書で気になった10か所
今回は制度全体の経緯を網羅するのではなく、長い調査報告書の中に残った、文書名、メールの一文、数字、研修資料、そして「記録がない」という記録を拾います。
ページ番号は3巻を束ねた公式の全巻統合版(Full Report)に印字されたページ番号です。PDF自体は1052ページあり、巻の切れ目で物理PDFページとのずれが変わるため、各付箋には確認済みの物理PDFページも指定しています。
誰が何を決めたか記録がない。委員会はメールをつないで「中古のジグソーパズル」を組み立てた
王立調査委員会は、調査の難しさを説明する冒頭で、制度の中心にいた人々から一続きの説明を得られず、重要な判断について「誰が、いつ、何を決めたか」の記録が残っていない場合が多かったと述べています。
そのため、大臣向けの説明資料など断片的な資料に加え、大量のメールをつなぎ合わせて経緯を追う必要がありました。
委員会は、その作業を「中古のジグソーパズルを組み立てるようなもの」で、絵はかなり見えても欠けたピースは残る、と表現しました。
この「記録の欠落」は、報告書の最後近くでも再び大きな論点になります。
法務助言の要旨は「非常に強いNO(ノー)」。しかしクリスマスをまたいで新年には忘れられた可能性
2014年、社会サービス省(Department of Social Services、DSS)の法務・政策担当は、人的サービス省(Department of Human Services、DHS)が検討していた所得平均化について助言しました。
報告書によると、問題は複雑な法理ではなく、対象となる給付が2週間単位の所得を前提にするのに対し、より長い期間の所得を平均すると各2週間の実際の所得を正しく示せない点でした。委員会は、提案されていた形での所得平均化は違法だったと整理しています。
法務担当のアン・プルフォード氏は、後の証言で助言の要旨を「非常に強いNO(ノー)」だったと認めました。
委員会は、2014年末のこの時点で助言の結論がDHSへ伝わった明確な証拠はなく、助言そのものも渡されなかったようだと述べています。一方、助言の趣旨はDSSからDHSへ伝えられた可能性が高いともしています。
そのうえで委員会は、2014年のクリスマスをまたぐうちに伝達の意図が立ち消えになり、新年には忘れられた可能性も示しました。
報告書の66ページでは、2015年1月20日のメールと添付資料によって、法務助言があったこととその内容がDHSへ伝わったと確認しています。クリスマスの説明は2014年末の伝達についての可能性であり、その後も助言の内容が伝わらなかったという意味ではありません。
四半期75,000件のため、残り約1週間で63,000件を追加開始する計画だった
2016年9月、OCI(Online Compliance Intervention、オンラインで受給者に所得情報の確認を求める仕組み)で新たに開始する給付の適正性確認の件数を、月末までに大きく増やす計画が作られました。
9月20日のメールでは、2016-17年度の7〜9月期に75,000件へ到達するため、9月26日から始まる1週間に追加で63,000件を開始する案が示されています。
同じメールは、自動処理や完了を妨げる既知のシステム上の問題を補うために手作業が必要になることや、9月30日に複数のシステム改修を投入する予定も説明していました。その改修には、受給者の債務を正しく計算し、手作業の負担を減らすために必要だとされたものが含まれていました。
債務計算を正しくするためのシステム改修が月末に予定される中、その直前の1週間で63,000件を追加開始する計画でした。
委員会によると、この計画は採用され、確認案件の追加開始は9月26日から始まりました。この記述は、その週に63,000件すべてが実際に開始されたという実績値を示してはいません。
リスクを説明資料へ足そうとした職員は「それを文書にするな」と言われたと証言した
同じ規模拡大をめぐる会議について、職員のコリンズ氏は王立調査委員会で証言しました。
彼女によると、月末までに75,000件へ規模を拡大するよう見通しを作り直す指示を受けた際、関連するリスクを挙げました。そして追加のリスクがあるとして、Combined OCI Brief(OCI統合説明資料)を更新しようと提案しました。
コリンズ氏は、その場でマリサ・ゴライトリー氏から「それを文書にするな」という趣旨の指示を受けたと証言しています。
報告書は、この会話をコリンズ氏の証言として記録しています。一方、Combined OCI Briefが最終化されなかったことは報告書が確認しています。
外部法律意見の話で「not scare the horses(騒ぎ立てるようなことはしたくない)」
2017年1月、Robodebt制度への批判的な報道や集団訴訟の可能性が話題になる中、DHS(Department of Human Services、人的サービス省)の幹部の間で、所得平均化についてどのような法律意見を用意するかがメールで話し合われました。
その時点までにDHSの法務部門(Legal Services Division)では、所得平均化を合法とする論拠について弱い、説得力に欠けるという見方が出ており、1月前半にはAustralian Government Solicitor(AGS、豪州政府の法務機関)へ外部助言を求める準備も進められていました。委員会は、キャスリン・キャンベル氏がこの助言取得の手続きを止めるよう指示し、その動機はオンブズマンの調査で制度の違法性が明らかになることへの懸念だったと認定しています。
1月21日にゴライトリー氏がアネット・ムソリーノ氏とジョナサン・ハトソン氏へ送ったメールには、正式な外部法律意見はまだ必要ないかもしれず、何かは用意したいが「not scare the horses(騒ぎ立てるようなことはしたくない)」と書かれていました。
委員会は、決定的な法的見解が本当に必要なら外部助言を避ける合理的理由はなく、ゴライトリー氏のメールは内部から所得平均化の適法性を肯定する助言を得たい意向を示しているようだ、と分析しています。さらに、ムソリーノ氏が独立した助言を求めるべきだと明確に伝えなかったのは、キャンベル氏とゴライトリー氏が違法性を確認する助言とその職業上の帰結を避けたがっていると知っていたためだ、と推論しています。
PwCの「Final Report(最終報告書)」草案は「Implementation Strategy(実施戦略)」へ変わり、社内では「not-report(報告書ではないもの)」と呼ばれた
2017年、DHS(Department of Human Services、人的サービス省)はPwCへ、適正性確認・不正対策業務について独立した検証を依頼していました。PwC側では「Final Report(最終報告書)」の草案を作成し、DHSとの間でも最終報告書についてやり取りしていました。
4月7日の会議メモには、DHS側のマクナマラ氏がreport(報告書)を「Strategy and PLAN(戦略と計画)」と呼ぶよう求める記録があります。その後、ファイル名も「DHS BPI Final Report」から「DHS BPI Implementation Strategy(DHS BPI実施戦略)」へ変わりました。
同じ時期、PwCスタッフはその文書を「not-report」や「non-report」(いずれも「報告書ではないもの」)と呼び始めました。
内部メールの一つでは、添付した最新版を「報告書なのか、報告書ではないものなのか、好きに呼んで」という趣旨で表現していました。
大臣向けPowerPointは2種類。一方は「依頼元が求めた説明」を反映する版、もう一方はPwCの「修正版」だった
PwCは報告書を書き進める一方、DHS(Department of Human Services、人的サービス省)の依頼で大臣向けのPowerPoint資料も作成していました。
4月10日、PwCは、直前の打合せでDHS側から求められた説明の筋立てと、それを裏付ける情報が実際にあるかを表に整理しました。そのうえで、PowerPoint資料を2種類作っています。
一方はDHS側が求めた説明内容を反映した版、もう一方は「revised narrative(修正版)」とされた版でした。
同日夜の更新版についても「DHS幹部が求めた説明に、より沿うようにした」と記され、その後もDHS側からPowerPointの修正を求める長いメールが複数送られていました。
「自分たちの分析ではなく、依頼元幹部のメッセージを売り込んでいるのでは」とPwC社内で懸念。返信は「今後3年は関与」「Happy days(これはいい話だ)」
2017年4月28日、PwC内部で、DHS(Department of Human Services、人的サービス省)向けの説明資料と、PwC自身の分析・見解との関係を気にするメールが送られました。
送信者は、その資料がPwC自身の分析や見解を示すものなのか、それとも特定のDHS幹部のメッセージを「売り込んでいる」のかという点を問題にし、DHSが実際に必要な改善を行わないのではないかという懸念も書いています。
これに対する別のPwC担当者の返信は、今後3年間は関与し、データ分析機能の外注も引き受けることになるとの見込みを示し、「Happy days(これはいい話だ)」と結ばれていました。
同じ返信では、大臣向けプレゼンテーションが終われば本来の業務範囲へ戻るという見通しも書かれています。「DHS幹部のメッセージを売り込む」という表現も「Happy days」も、王立調査委員会の評価ではなくPwC内部メールの文言です。
ある適正性確認担当職員は、自分の研修で債務計算が扱われなかったと証言した
王立調査委員会は、DHS(Department of Human Services、人的サービス省)の職員が受けた研修についても証言を集めています。報告書には、技術研修が短く不十分だった、債務計算や債務の問題発見、債務の見直し方法などの研修が足りなかったという複数の説明がまとめられています。
その中で、あるDHSの適正性確認担当職員は、OCI(Online Compliance Intervention、オンラインで受給者に所得情報の確認を求める仕組み)のシステム研修について具体的に説明しました。
彼女によると、新しいオンラインシステムの概要はPowerPointで説明された一方、肝心の「債務がどう計算されるのか」は研修で扱われていませんでした。
別の職員は、プライバシー法、税法、社会保障法や複雑な証拠・所得パターンを扱う仕事に対し、受けた研修期間の短さを問題として挙げています。委員会は、この章の職員の証言が制度期間中の全職員の経験を代表するとは想定していない、と留保しています。
最後に残ったのは「報告書を最終化しない」「法律意見を最終化しない」判断の記録欠落
報告書の終盤で委員会は、重要な意思決定について十分な記録が残っていない例をまとめています。
PwCとの契約では主要な提言をFinal Report(最終報告書)にまとめることが求められていましたが、その報告書は提出されず、代わりに大臣へPowerPoint資料が提示されました。委員会は、そのPowerPoint資料で「報告書」という契約上の成果物を満たすと、DHS(Department of Human Services、人的サービス省)がPwCへ伝えた記録も、DHS内部でそう決めた記録も見つからなかったとしています。
報告書の237ページでは、委員会は2017年6月6日ごろにキャンベル氏がPwCのウェーバー氏へ、報告書を最終化してDHSへ提出しないよう伝えたと認定しています。同時点の記録がないことと、委員会が後の証拠から判断したことは区別されています。
また、DSSが2018年8月14日にClayton Utzから受け取った法律意見書の草案は最終化されず、9月18日に支払いが決まりました。最終化の指示を出さずに支払った理由についての記録はありませんでした。
委員会は、重要な出来事・会議・議論・判断には適切な記録が必要であり、Robodebt制度を通じて重要情報が口頭で伝えられたように見え、それが後から判断を検証する妨げになったとまとめています。
報告書が指摘した背景
王立調査委員会が繰り返し扱っているのは、所得平均化という一つの計算方法だけではありません。法務助言がどこまで共有されたか、予算措置の目標とシステムの準備状況がどう関係したか、リスクが説明資料へ残ったか、外部法律意見を求めるか、外部コンサルタントの成果物をどう扱ったか、現場職員へ何を研修したか、といった意思決定と情報伝達の連鎖です。
また、報告書は強い言葉を使う場面でも、証言、メールなどの記録、委員会自身の認定・推論を区別しています。この記事でも、会話に関するコリンズ氏の説明は「証言」、メールに残る文言は「記録」、委員会の分析は「委員会の指摘」として分けています。
この記録の問題に加え、委員会は、オンブズマンへの重要情報の隠蔽や虚偽の説明についても認定しています(208、217、221ページ)。報告書は、単に情報伝達が行き違ったという説明にはとどまりません。
2023年のFinal Report(最終報告書)は57件の勧告を示し、その中には重要な意思決定・議論を文書化する基準の整備、法律意見書の草案を最終化しない場合の理由記録、自動化された意思決定の透明性などが含まれています。
この記事の訂正
クリスマスの伝達漏れは委員会が示した可能性とし、助言の趣旨が伝わった可能性と2015年1月20日の伝達を補いました。6万3000件は実績ではなく追加開始の計画と明確化しました。Collinsの会話は証言へ帰属させ、独立に未確認という追加断定を除き、外部助言の手続き停止と後のメールを区分しました。研修の説明は一職員の経験に限定し、PwC報告書を最終化・提出しない指示についての委員会認定を補いました。Clayton Utz草案の受け手をDSSとし、口頭伝達についての留保、参照ページ、英語表現の訳も整えました。
